スタイル説明/ヒッピー
1965年、アメリカはベトナムの内戦に武力介入を決意し、アメリカ軍による爆撃がはじまった。その翌年の1966年10月には、サンフランシスコのゴールデン・ゲート・パークに、全身を花で飾った色とりどりの3万人の若者たちが溢れかえった。集会の名は、『ラヴ・イン(Love-in)』。同年6月に行なわれた学生達の座り込みデモ「シット・イン(Sit-in)」にヒントを得て開催されたものである。そこに集まった3万人のフラワーチルドレンたちは、「武器よりも花を」「ラヴ&ピース」を合言葉に泥沼化するベトナム戦争に反対を表明し、1967年にはアメリカ各地で大規模の「ヒューマン・ビー・イン(Human Be-In)」が開催され、やがてこのムーブメントは50万人が集まる伝説の「ウッドストック・フェステバル」(1969年)へと繋がっていく。
さて、ヒッピーの源流は、1950年代中頃に登場した「ビートニク(ビート・ジェネレーション)」にある。ビートニクは、元々「ニューヨークのアンダーグラウンドで退廃的に生きる若者たち」を指していた。主にゲットーのヒップスタより影響を受け、黒人、特にチャーリー・パーカーやディジー・ガレスピーといったジャズメンに憧れていた。そのためLSDなどハードな薬物にも手を染め、積極的にアウトローを気取っていたが、彼らの多くは中流階級の白人だった。しかし、50年代末期、パリの実存主義やニューヨークのアーティストたちと結び付き、ビートニクは次第に洗練されていく。文学界では、ウイリアム・バロウズやジャック・ケルアック、アレン・ギンズバーグが彼らの生活を描き、教祖的存在になっていった。また、放浪癖の強いビートニクは、新天地と薬物とマイルス・デイビスが生み出したクール・ジャズを求めて西海岸へと移動していき、ヒッピーの先駆けとなった。
1950年代、それは輝かしい時代だった。アメリカは「パクス・アメリカーナ」を体現し、世界最強の工業国として豊かさは最高潮を迎えていた。ところが、1960年代に入ると、その輝きは一気に色あせ、暗い時代の幕開けとなる。当時の冷戦下においては、産業構造は次第に軍需依存体質に傾き、そのために他の先進国(フランス、西ドイツ、日本)と比べ競争力が失速。環境破壊、東西冷戦、キューバ危機(1962年)、ケネディ暗殺(1963年)、ベトナム戦争(1964-75年)等々・・・厭世感に包まれていった。全人口の50%を超えるベビー・ブーム世代(25歳以下)も、このムードには耐えられなかったし、戦争に行くのも嫌だった。そこで、会社を辞め、学校を辞め、懲役を拒否し、放浪し、人をモノ扱いする西洋文明を憎み、戦争を嘆き、未熟な生き物である自分自身を認め、愛と平和と自然と自由と歌を愛し、マリファナやLSDを使用した精神開放や東洋思想による自己探求、および内的幸福を求めた。その生き様、ライフスタイルを好む若者たちを、人々は「ヒッピー」と呼んだ。
しかし、大人たちの戦争の前で、ヒッピーたちは最後まで無力だった。1967年には、本質から離れ大衆化・形骸化したヒッピースタイルを、ヒッピーたち自身が「ヒッピーの葬儀」によって葬った。つづいて1969年にはフリー・コンサート中に死者を出す「オルタモントの悲劇」が起こり、翌年にはジミ・ヘンドリックスとジャニス・ジョプリンがドラック中毒で死亡。1975年のベトナム戦争終結の前に、ヒッピー・ムーブメントは終わりを迎えた。
【「ヒッピー」に含まれるスタイル例】
■ビートニク(1950年代後半-60年代前半)
■サイケデリック(1960年代後半-70年代初頭)
■ウエスト・コースト・スタイル(1970年代初頭-中期)
■フォークロア(1970年代)
■ネオ・ヒッピー(1993年)
【代表的なアイテム】
◇ピースマーク(鳩の足跡柄)のネックレス
◇手作りのアクセサリー
◇フレア・パンツ、ブーツカット・ジーンズ
◇ヒゲ、ロン毛、ヘアバンド
◇タイダイ(絞り染め)のシャツ
◇チューリップ帽(フロッピー・ハット)
◇ウエスタン・ジャケット
◇パイレーツ・ロール(バンダナを海賊風に)
◇エスニック調のアイテム全般
◇エコロジー・アイテム全般