スタイル説明/ヒップホップ
ヒップホップが誕生したのは、1970年代。犯罪多発地区で有名なニューヨークのサウス・ブロンクス地区で、地域住民たちの祝祭「ブロック・パーティー」から生まれたといわれている。以前からブロックパーティでは、音楽演奏やバーベキュー、ダンス、野外ゲームなどが行なわれていたが、やがて催し物の中に「ラップ」「DJ」「グラフティ」「ブレイクダンス」といった黒人オリジナルのユニークな表現が登場。それはパーテーだけではなく、公園や廃墟ビル、道端など、ストリート全体を舞台にすでに広がりをみせていたものだった。そんな黒人による創造的な文化全体を「ヒップホップ」と呼ぼう、三大DJのアフリカ・バンバーダは、そう提案し、「ラップ」「DJ」「グラフティ」「ブレイクダンス」はヒップホップの四大要素とされた。なお、三大DJのうち、残りの2名は、『ブレイクビーツ』を考案したクール・ハーク、『スクラッチ手法』を広めたグランドマスター・フラッシュである。
四大要素はそれぞれがバラバラに自然発生したものだが、最も古いのは「グラフティ」だ。グラフティとは、「落書き」の意味で、スプレー缶が登場する1970年代以前は社会批評のメッセージや個人の名前など“文字”が主流だった。1960年代にはストリートギャングの縄張りを示すものが多かったが、一方でアートな作品も生まれつつあった。1971年、ニューヨーク・タイムズ紙がエアゾール・アート(グラフティ)を描く少年TAKI183(本名:ディミートリアス)のインタビュー記事を掲載。一気に世界中へ広がるきっかけを作った。次に、「ブレイクダンス」だが、当初は脚の動かすスピードだけを競い、こちらもストリートギャングが取り入れ広がっていった。抗争をまとめるために銃を使わず、ダンスのストリートバトルで勝敗を決めていたのである。後に、次々と大技が編み出され、クラブシーンで火がつき、1982年の映画「フラッシュダンス」で世界中に衝撃を与えた。
つづいて「DJ」は、クール・ハークによって単なる音響機材係から創造的な音楽アーティストへ生まれ変わった。最後に、「ラップ」。歴史的には、アフリカのグリオ(演奏に合わせて口伝で歴史や英雄譚などを伝える人)にルーツを持ち、レゲエからの影響も指摘されている。最初は、「ダーティ・ダズンズ」と呼ばれる汚い言葉でやりあう口ゲンカ遊び(ラップ・バトル)だったが、やがて韻を踏む「ライミング」を取り入れ、誰でもできる敷居の低い音楽の形態として徐々に広まっていった。歌詞の内容も愉快な「パーティ・ラップ」から次第にゲットー(被差別居住地区)など社会性をテーマにしたものへ変化し、“娯楽”の粋を超えていった。このように、ヒップホップ・カルチャーは、黒人のアイデンティティに深く関わり、その影響力はジャズ、ロック、パンクに引けを取らない。まさに歴史的な一大ムーブメントだといえよう。
【「ヒップ・ホップ」に含まれるスタイル例】
■オールド・スクール
■ニュー・スクール
■ギャングスタ
■Bボーイズ(ブレイク・ボーイズ)
■ネオ・オールド・スクール