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ストリート・ウオッチング(銀座ストリート)

【概要】
明治時代になるまで、江戸経済の中心といえば、日本橋だった。銀貨の鋳造所から地名が由来する銀座に対し、日本橋には現在の日本銀行に地に「金座」が置かれ、現在の築地も吉原も日本橋に存在した。当時、銀座は商業地というよりも職人街だった。文明開化以降は、鉄道の終着駅だった「新橋」と経済の要所「日本橋」の間のエリアとして、一気に存在感を増す。明治政府による大規模な区画整理によって美しい煉瓦街が生まれ、高騰した地価によって住民は締め出され、代わりに華族御用達の高級店や外国人が進出し、舶来品やハイカラ文化が流入してきた。が、それでもまだ一般人にはマイナーなエリアだった。銀座が大きな躍進を遂げたのは皮肉なことに1923年の関東大震災によって街が破壊され尽くしてからだ。震災後は再開発が進み交通網が整備されると、セレブな紳士や淑女ではない庶民も百貨店やカフェ、劇場、ダンスホールなどにレジャー気分で足を運ぶようになった。大正デモクラシーの影響を受けた高感度な若者「モボ・モガ」が“銀ブラ”するようになったのもこの頃である。その後は、ビジネス街としての東京駅・丸の内の発展、劇場や放送局などが立ち並ぶ有楽町の躍進、日本橋から築地への魚河岸の移転など、周辺エリアの興隆に伴って、銀座も急速に発展していく。また、戦後には服部時計店(銀座和光)や松屋デパートなど銀座の主要施設がGHQ占領軍のPX(売店)となってしまい、一般人は利用できなくなったが、アメリカ文化の発信地となり、かえってそれが銀座に箔をつける結果を生んだ。

一方、ストリートに目を向けると、戦後まもなく登場したのは、「パンパン」という外国人相手の娼婦だった。彼女たちはアメリカナイズされた原色の派手なファッションに身を包み、チューインガムを噛んでいた。1950年代には、映画産業が花開き、劇場の多い銀座エリアにもシネマファッションを手作りした女の子が練り歩くようになる。さらに1960年代、雑誌「平凡パンチ」とブランド「VAN」を通じてアイビー文化が一世を風靡し、銀座みゆき通り周辺では「みゆき族」という若者がたむろしていた。ところが、オリンピック開催前に「外国人に見られたら恥ずかしい・・」という理由で、みゆき族は浄化作戦を受ける。若者たちは新宿や渋谷へ非難し、それからは銀座に近寄らなくなった。以来、銀座はお金に余裕のある「大人の街」「世界屈指のハイグレードな商業地」として発展していくことになる。しかし21世紀、バブル崩壊の後遺症に耐え切れず、銀座は遂にファストファッションやファッションビル、セレクトショップなどの進出を許してしまい、低年齢化・大衆化・チープ化を招いてしまう。

【銀座のストリートファッション】
現在、渋谷は、カルチャーごとに4つのエリアに分かれる。まず、銀座和光前のメインストリート『中央通りエリア』。それから新橋方面へと広がる『並木・みゆき通り等エリア』。つづいて、最近の発展がめざましい『銀座一丁目エリア』。最後に、大手町方面につづく『有楽町エリア』である。

■中央通りエリア
「三越」「松坂屋」「松屋」「和光」といった老舗デパート、さらに「ミキモト」「ティファニー」「シャネル」「カルティエ」「ハリーウィンストン」「ブルガリ」「グッチ」「プラダ」といった専門店・路面店が立ち並ぶ銀座のメインストリートである。休日は歩行者天国でもあり、銀座初心者はまず、この一帯を歩き、銀座のハイソな空気を味わうが、庶民は間違いなくランチに困り、キムラヤのあんぱんかカレーライスで腹を満たす。老舗デパートの客層は、以前は日本橋三越に居るような紳士やマダムだったが、現在はバスで乗り付けてくるアジアン観光客がメインとなった。また、店がオープンする前の朝方は、セレブ気取りのセレブが犬の散歩をしている姿をよく見かける。

■並木・みゆき通り等エリア
並木通りやみゆき通りを中心に、中央通りと数奇屋通りの間に広がる路地には、本物志向の高級ブランド店が密集している。表のソニービル、エルメスビル、コーチビルまでは素人でも何とか足を踏み入れることができるが、その先はまさにエスタブリッシュメントにだけ許される特別な空間となっている。

■銀座一丁目エリア
いまいちアクセスの悪さからか、古い画廊や美術商が集まり、静観でレトロな雰囲気が残っていた銀座一丁目エリアも、近年は続々とオープンしたセレクトショップやおしゃれな飲食店に侵食され、裏原宿のごとく「裏銀座」化してきている。だが、おかげで銀座はアダルトすぎて近寄れず、かといって渋谷・新宿・池袋は遠すぎるため、上野や北千住、錦糸町辺りでおしゃれに手を打つしかなかった千葉県&茨城県在住の若者も、やっと気軽に最新のトレンドに触れることができるようになった功績は大きい。

■有楽町エリア
バブル崩壊以降、沈む丸の内を本拠とする三菱グループの願い、それは「大手町から銀座へ人の流れをつくり、一大商業圏を形成すること」だった。丸ビル、新丸ビル、丸の内オアゾの完成、ブランドストリートの創出、ミレナリオやカウパレードの誘致・・・等々。三菱地所をはじめとする三菱グループのなりふり構わぬがんばりによって、その願いは成就しつつある。丸の内は、いまやリトル銀座となった。が、その努力を裏切るように、なぜかかつて娯楽とマスコミの聖地だった有楽町エリアの地盤沈下は止まらず、老舗百貨店は逝き、大型家電チェーンやファッションビル、地方のアンテナショップ、大衆食堂が大きな顔をするチープなエリアに落ち着いた。そこから滲み出るオーラは、丸の内と銀座へと溢れ出し、ちょっと高飛車だった銀座も「最近、キミも角が取れて親しみやすくなったね」と言われるようになるきっかけを与えた。

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